武術・武道をやっていると「気」という言葉に出会うことがままあります。
この言葉の使い方も、流派・個人によって様々です。太氣拳の澤井健一先生は「太氣は気と気分だ」というようなことをおっしゃっていたそうです。
わたしは武術を続けているといっても、単なる諦めの悪い下手の横好きですので、大したことは分かりませんが、自分なりの捉え方について、ちょっと書いてみます。
まず、気について、宇宙のエネルギーだの霊的なパワーだのといった捉え方をする方がいらっしゃいますが、個人的にはまったく信じていません。
世の中広いですから、もしかしたらそういうものもあるのかもしれませんが、わたしには全然信じられないし、そもそもそんな考え方をする必要性も感じません。
ただ、後述する感覚を言葉にする上で、そういう言い方をするとしっくりくる、という場合があるのかもしれません。
しかし、そうした「実体」として捉えてしまうと、気という言葉に振り回される危険があるように思います。
気というのは何より言葉であって、機能したとしても実体としてあるかどうかは別問題です。「愛」だって、社会的・間主観的な機能としては確実に「存在する」のですが、人間の体を切り開いて「これが愛」というのが取り出せる訳ではありません。脳の特定部位の興奮とか、脳内物質の変化とかと関連付けることは出来るかもしれませんが、それは相応関係があるというだけで、「愛」をそうした物理的現象に還元できる訳ではありません。なぜなら「愛」は言語活動だからです。
話を「気」に戻せば、「気」が何より言語活動であるとしても、それが指し示す現象というのは確かにあります。
具体的には、気感というのはあります。これはある程度練習すれば誰でも習得できるものだと思います(ただ、得手不得手のようなものはある)。気功でも立禅でも太極拳でも出来るのではないでしょうか。
わたし自身は、縁あって昔意拳の站樁を教わって、手が暖かくなりボワーンとする、意識するだけで腕が勝手に動く、なとどいった感覚は割りとすぐに表れました。ただし、これだけでは別に武術的には役に立ちませんし、その時は自分も若く、「こんなことやるくらいならミット打ちでもした方がいい」と思っていました。その後大分経ってから、再度立禅に取り組むようになり、全身に様々な感覚が得られるようになりました。
よく太氣拳・意拳について、「イメージ」というようなことが言われますが、ここでのイメージとはいわゆるイメージトレーニング的なことではなく、イメージを使って感覚を誘導する、というものです。イメージ自体には大した意味はありません。感覚さえあればイメージなどあってもなくても良いのです。ここでの感覚というのが、気感というもので、これは「なんとなくそんな感じ」というような曖昧なものではなく、分かれば間違いようもなくはっきり分かります。また、段階的にどんどん進歩・変化していくものです。最初の頃は時間をかけないとよく分からない心許ない感じですが、慣れれば一瞬で手足に鉛が注がれたような実感が得られるようになります。
はっきり分かるものではありますが、だからといって、例えば手の間に気のエネルギー体がある、というようなものではないでしょう。少なくとも、わたしはそう考えています。何かがあるような感じは確かにしますが、カメハメ波じゃあるまいし、本当に実体がある訳がありません。おそらくは脳・神経系のある種の興奮状態なのではないでしょうか。
わたしたちは日常、自分の手足がどこにあるのかわかっている気でいます。ですが、実は普段ダラッとしている状態だと、意外と体のことを認識できていないものです。階段を降りていて、まだ階段が続いていると思ったらなくなっていた、という時、足がガクッとなったりしますが、人間の頭は、予想というか、「大体こんなもんやろ」という大雑把な括りで身体を操っていて、実はあんまり細かいところまでは見ていません。これを利用して、幻肢を健常者に再現する実験もあります(自分の手足などを見えない状態にして、映像などのイメージ上のニセの手足に感覚を生じさせる)。
気感の出ている状態というのは、通常ダラッとしているところに神経が通っている状態なのではないかと思います。通常ダラッとしているのは、その方が効率が良いからです。手を抜けるものは抜いた方が省エネになります。ですが、武術ではそうも言っていられないので、パシッと掌握した状態にしておく練習をする、ということでしょう。
この気感というものが出たとしても、それだけではどうにもなりません。健康法としては意味があるのかもしれませんが、武術的にはそれだけではどう考えても強くありません。普通に殴った方が良いです。まして「エネルギー体」のようなものを飛ばしてそのまま相手を倒したりできる訳ではありません。それではマンガです。
ではなぜ気感が大事なのかと言えば、一つは前述の通り神経の通った状態にすること、今ひとつは、この気感を使うと、「体の中に手が伸びる」感じになってくるからではないかと思います。どういうことかと言えば、説明しにくいのですが、体の中の色んなところが「ここってこう動くのか!」と分かるようになってきます。
また、おそらく気感というのは体の自然なもので、これを辿って任せてみると、体の素直な動きというのが導き出されるのではないでしょうか。
実際、これを使ってわたし自身は圧倒的にパフォーマンスが上がりましたし、武術にかぎらず一般のスポーツやダンスにも応用の効くものかと思います。
また、説明しにくいのですが、一旦手足がズシンと重い感じを得られると、特に意識しないでもその状態をキープしようとする力が働くようになります。形状記憶合金のようです。これが意識しないでも動くことで、自分の体制が勝手に維持されるようになってきます。ジャイロのような感じです。崩れされにくい体になる、ということです。
もちろん、実際に人に相対してこの状態を維持するのは簡単ではありませんし、もっとレベルの高い人を相手にすれば崩されてしまいます。特に、一人で練習している時と対人になった時の間にある壁は、かなり強固です。人間、目の前にある直接的・物理的な情報に驚くほど引きずられてしまうものだと思います。まして相手はこちらを殴ってやろうとしている訳ですから、このストレスに立ち向かって自分を維持するには、単に身体的レベルを上げるだけでなく、心理状態のようなもの、「気分」を制御できるようにならないといけないでしょう。まぁ、自分はまだまだまるで出来ていないのですが。
この他にも色々意味があるのではないかと思いますが、わたしのレベルではなんとも申し上げられません。
逆に言うと、気感そのものを有難がったり、一喜一憂することには意味がないと思います。
わたしの考えでは、気感というのは、ロッククライミングをする時に指をかける溝のようなものです。この溝には文字通り「命がかかって」いて、かけがえのない、とても大切なものです。これがなければどうにも前に進めません。
しかし溝自体に意味がある訳ではありません。溝は単なる溝で、溝につかまって「ヤッター!」と言っているだけでは、全然上に登れません。目標はあくまで頂上です。
また、わたしが掴んでいるこの溝は、わたしにとっては大事なものですが、他の人にとっては大事かどうか分かりません。山には色々な登攀ルートがありますから、別のところから登っている人にとっては、わたしの溝なんかどうでもいいです。偶然似たルートから登っている人がいれば、お互いの「溝情報」が有益かもしれませんが、それはあくまでたまたまです。
溝は大事ですが、溝について言葉にして語ってもあまり益がありませんし、人の話を聞いても使えるかどうか分かりません。自分の溝は自分が死守し、上に登っていくことだけが意味があるのだと思っています。
ところで、気分というのは気とは違うものだと思います。澤井健一先生が「太氣は気と気分だ」とおっしゃったなら、両者が違うから二つ並べたのであって、同じなら「気だ」と言えばよいことでしょう。
気分というのは、上に書いたように、自分を維持できている感じ、立禅の状態の時の感じ全体を言うのではないでしょうか。これは単に気感というのではなく、外界に対して自分をしっかり持っている気持ちのことです。
これは「設定セット」のようなものではないか、と思うことがあります。
最近の一眼レフカメラは、「アイリス優先」「シャッタースピード優先」などのモード以外に「カスタム」などの項目があったりします。例えば「絞り開放、ISOは自動で上限800、露出補正-0.3、中心部優先測光」といった一連の設定を予めまとめておいて、「カスタム」に目盛りセットすると全部がパッとそれに揃う、という機能です。
「気分」というのは、多分この「カスタム」のようなもので、組手や実戦で細かいところを一々セットしている暇はありませんから、ある気分に入ると全部がパッと揃う、ようなものではないかと思っています。
これも半端者が考える現時点での理解ですので、全然違うようなら申し訳ございません。