武術の試合ルール、ルールへの最適化を避ける「ルールを決めない」ルール

 語られ尽くした話題ですが、武術の試合ルールというのはなかなか悩まされる問題です。
 根本的な理由として、武術は「本来的には」スポーツではなく、ルールを前提とする競技とは異なるものだからです。誰もが分かっていることですが、空手も柔道も元を辿れば「スポーツ」などという概念の成立以前に由来する格闘技術であり、競技のためにある訳ではありません。サッカーはサッカーのルールがあってこそのサッカーであって、「手を使った方が早い」とか言い出したらサッカーそのものが成り立ちませんが、空手は別段、現在存在している様々なルールが存在するから空手な訳ではなく、そんなルールがなくても空手は空手な訳です。
 さらに言えば、「異種格闘技戦」という、これまた語られ尽くした要素が出てくるところがややこしいです。「サッカーとラグビー、どっちが強いか決着をつける!」とかいうオモロイ人はいませんが、「空手と柔道、どっちが強い!」みたいな話はいくらでも出てくる訳です。それもやはり、現代においてはスポーツ競技的な社会的サバイバルを試みているとはいえ、武術が本来的に野獣的な?格闘の道具として進歩してきたものだからでしょう。
 しかし当然ながら、現代社会においては「ノールール」でやりたい放題に試合を催すことなど出来ません。仮にごく一部で成り立ったとしても、メジャーにはなり得ないでしょう。まして「アマチュアスポーツ」として成り立つ見込みはゼロです。
 「アマチュアスポーツ」として成立させるためには、まず、最低限の安全性が確保されないといけません。
 さらに言えば、より深い問題として、路上であったとしても厳密な意味での「ノールール」などではありません。わたしたちは常に社会的コンテクストの中で生きているのであって、喧嘩であったとしても闇雲に相手を叩きのめすとか、殺すとかしていれば良い、というものではありません。「殺すまでやるとマズイ」とか「後ろから襲うと勝っても後で卑怯者呼ばわりされないか」とか、色々な事情がからんできます。
 ブラジルなんかだと、男と男の勝負は素手で一対一、とことんやる、みたいな文化があって、それでブラジリアン柔術みたいな戦い方が進歩した、という話を聞いたことがありますが(本当かどうかは知りません)、それもある意味「暗黙のルール」が流れ込んでいる訳で、同じことがカンボジアの路上でも成り立つのか、日本ならどうか、というと、簡単ではありません。大体、仮に「男と男の勝負」がそうだったとしても、女性が身を守ったり強盗から逃れたりといった「護身術」的局面ではどうなのか、というと、事情は違うでしょう。
 本当の「ノールール」など追求し始めたら、武器があったらどうだ、対複数なら、横が崖なら、などといくらでも話が膨らむ訳で、果ては「アメリカ大統領が最強」みたいな訳のわからない話になってしまいます。
 とにかく、「ノールール」というのはそんなにわかりやすいものではないのです。
 そうしたルールと武術の間の悩ましい関係を前提とした上で、一応素手一対一安全性に考慮する、という程度の括りを入れてみたとしても、やはりルールには無数の可能性があり、実際、無数のルールが存在します。
 ルールがあることのメリットについては論じるまでもないでしょうが、デメリットは何かというと、一般的には「技が限定されてしまう」等々といったことが言われます。しかしより正確には「ルールに最適化してしまう」ということが本質ではないかと思います。
 極真空手にしても、初期の大会の映像などを見ると、結構武術的というか、「空手だなぁ!」という感じがするのですが、いわゆる極真ルールが一般化するに連れて、対策が練られてルールに最適化し、結果としてあまり武術的とはいえないスタイルが一般的になっていきます。勝敗のハッキリする試合に臨むとなれば、誰でも勝ちたいと思うわけで、限られた条件で勝つために最も有効な方法を探すのは自然なことです。
 もちろん、一つのスポーツとしてそれはそれでアリだと思いますし、そのような最適化の結果、ある分野の技術が非常に高いレベルまで洗練される、ということは、武術系に限らず様々なスポーツに見られることです。そうした長所を認めた上で、それでも敢えて言えば、やはり本来的な意味での「武術的」要素は薄まっていかざるを得ないように思います。
 こうしたデメリットを少しでも減らすために、「こんなルールなら安全でかつノールール的・武術的」というような提案が無数に出されてきました。そのうちのいくつかは実際、現行のルールよりはより「武術的」かもしれません。しかしどんなルールであれ、回数を重ねれば最適化が起こり、悪い意味でのスポーツ化が進行してしまうのは避けられないように思います。
 そこで一つ、めちゃくちゃな考えを書いてみたいです。
 予め申し上げると、現実にこの方法で大会等を催すのはほぼ不可能かと思います。できたら非常に楽しいと思うのですが、社会常識的に考えて極めて難しいのは間違いないでしょう。
 それを前提でとんでもないことを言いますが、「ルールに対する最適化」が問題なのなら、「ルールを決めない」のはどうなのでしょうか。
 といっても、何でもありとか、ノールールというのではありません。
 選手に対して、試合開始ギリギリまで、ルールが告知されないのです。つまり、ルールに最適化した「対策」をとらせません。一般的な稽古を重ねるより他に何もしようがない、という状態にするのです。
 「そんなこと言ったって、他人の試合を一度でも見ればルールが分かっちゃうじゃないか」と仰るでしょう。その通りです。ですから、試合ルールは毎回変わります。毎試合です。
 さすがにすべてのルールをテキトーに考えるというのはコストが掛かり過ぎますので、予め十とか二十とか、パターンを用意しておきます。そして試合直前にサイコロでも振って「何が出るかな何が出るかな」「はーい、極真ルール~!」みたいな感じで、いきなりルールが決定するのです。
 パターンの数に限りがあれば、原理上、対策を立てること自体は不可能ではありませんが、最適化が起こるほどではないでしょうし、ヤマをかけるにも効率が悪すぎます。結果、「いつもの稽古」以外に何もできなくなる、地力を付けるのが一番の早道、ということになるのではないでしょうか。
 当然ながら、ここでいきなり「極真ルール」を告知された選手たちの繰り広げる戦いは、極真ルールに慣れた極真の選手たちの戦い方に比べて、遥かにレベルの低い「極真ファイト」になるでしょう。しかしそれはそれで良いのです。別に極真ルールで勝つこと自体が目的ではないのですから。いきなり訪れた変な条件の中で、自分の中で培ってきたものを最大限に発揮するよう心がけるしかないわけで、それを試みる場として機能すれば、試合としては有効なのです。実際、路上の戦いというものは、大抵の場合は「いきなり訪れた変な条件」でやらざるを得ないものではないのでしょうか。
 たまたま、極真出身の選手が極真ルールにあたる、ということもあるでしょう。その選手は運が良いです。しかしこういう運不運というのは、それこそ路上の戦いでもあることです。運が良かったのはただの結果で、最初から運に頼るのとは意味が違います。ヤマをかけて極真対策だけやってくる選手がいたとしたら、それはアホというものでしょう。路上での戦いに備えて、階段の上から蹴飛ばす練習だけしているようなものです。階段がなかったら終わりではないですか。
 個人的には本当に有効だと思っているのですが、もしこうした大会が実現できたとしたら、個々の試合はさぞかし「見応えのない」ものになるでしょう。極真ルールは極真以下、ボクシングルールはボクシング以下、それもはるかに下の泥仕合の連続になることでしょう。
 でもそれで良いのです。最適化する暇のないところでどれだけ地力を出せるか、それこそが武術の真価ではないのでしょうか。
 この珍案、どなたか実現して下さらないものでしょうかねぇ。やっぱ無理ですよね・・・。