これも素晴らしい一冊です。
序文にこのようにあります。
ただ、既刊の書籍にも問題点はある。血が通っていないと感じるのである。
立禅の組み方・這の方法、確かに言っていることは分かる。ただ、だからどうした、と読者は思わないだろうか。
「気の力」の意味、「意念」の意味。50歳を超えた私にとってさえ、これらの言葉は前世紀の文語として響き、イメージ意外に惹き起こされるものはない。言葉は常に、その時代の同時代的意識や状況によってしか理解されない。
現代はこの「気の力」・「意念」の言葉が生き生きとして流通する時代ではないのである。だから「気」「意」を説明しようとすればするほど、自己満足的なモノローグになり、閉鎖的な小グループ内でのみ通じる隠語になってしまう危険性がある。
天野先生はここでの批判通り、「活きた」「血の通った」言葉で説明されます。通り一遍のマニュアル的な説明ではなく、天野先生ご自身の経験から出てきた言葉だ、というのが、読んでいてヒシヒシ伝わってきます。その分かりやすさは、他で見たことのない種類のものです。自分自身の経験と照らして、「あぁ、そういうことだったのか!!」という箇所も沢山ありました(もっと早く知っていたら・・)。特に半禅についての説明は、目からうろこでした。
本の構成としては、以下の通り。
立禅
半禅
歩法
打法
発力
練り
実践的練習
技術総論
拳論
構成的には、特に奇をてらったところはないです。ただし中身は、正に類書のないものです。多くの人々が興味を持っている、意拳と太気拳の微妙な違い、その違いの理由などについても、考察が加えられています。
気になるところを抜き出そうかと思ったのですが、線が引かれまくっていてどこを引用すればいいのかも分かりません。何度も読んで全編を頭に叩き込むべき本です。
とりあえず、半禅についていくつか抜き書きしておきます。他にも重要なところが沢山あります。
半禅は、言ってみれば動きの一瞬を切り取り、その中で引き出される骨格・筋肉・神経の連動を内観として感じ取る訓練であり、現実に動きを造形する際の基本となるものである。
半禅の場合、ともすると後手の張りが失われがちなので十分に注意し、小さくまとめるより大らかな気持ちで組む。立禅の時と同じように座り込むように腰を落とす。ただ、半禅の場合は前足に座り込むという意識も大切である。
意拳の立禅から太気拳の立禅に移行する過程で発力が養われるのである。
カラダは前に往こうとしているが、意識がこれを押し止めている。
上体に対してわずかに骨盤がねじれている。
前足の踵をわずかに浮かせ、腹筋を収縮し、前足側の骨盤を上げる。それは同時に、後足の地を踏む力を引き出す。この力を全身する際の推進力として活用するのである。
後足の蹴る力の源は前足を引き上げる力である。
骨盤を引き上げる時、同じ力で上体を折るように縮める。
半禅を応用した歩法について。
前足が地面についたら、その足で地面を引き込むようにし、その反動で後足を引き付ける
最後に、ほとんど技術を越える領域の話で、印象的だった箇所です。太気拳(とその思想)における、重要なポイントをお話されていると思います。
よく組手の際に聞かれる言葉。
「ぜんぜん見えなかった、気がついたら倒されていた。殴られたか、蹴られたか、それさえも分からない」
見えなかったから反応できなかった。だから打たれる、蹴られる、倒れる。
一見するとあたりまえのようである。しかし、当たり前でないことが良くある。
後でビデオで検証してみる。相手がけろうとした瞬間に反応している。打たれる寸前によけようとしている。まるで待っていたというように。
しかし、たまたま脚が、拳が防御をすり抜けてヒットする。そこで先程の言葉が出てくる。彼は防御しようとしたのを忘れたのか。そうではない。
彼は相手の拳を見たのである。あるいは相手の蹴りを聞いたのである。しかし、意識に「見た」「聞いた」が上る前に反応したのである。
彼は身体で見、聞いたのである。
私が空手をやっていた頃、眼前に拳がきても眼をつぶらない訓練をしている先輩がいた。「大変な訓練をしているな」と当時は思った。私は途中で澤井先生の弟子になったので、その先輩がその後どうなったのかは知らない。でも多分その訓練は実を結ばなかったのではと思う。それは先程も書いた熱いものに触れて手を縮めない稽古と同じだからである。
目の前に拳が来ても眼をつぶらない練習をするのなら、眼の前に拳が来ないように練習すればいい。熱いものに触れて手を引っこめないより、触れないようにするのがいいに決まっている。
太気拳の扉 天野 敏 BABジャパン出版局 2003-02 |