総合格闘家で範馬刃牙のモデルとも言われる平直行氏。現在は島田道男先生の気功会で指導員を務められ、格闘技と武術を横断されるマルチ・マーシャルアーティストです。
その平直行氏のDVD「総合武術入門」。タイトルからして面白いです。総合格闘技ならぬ総合武術です。
冒頭で平氏は、武術を学んでいると、それが構築された江戸時代以前の概念が分かりにくい、ということを指摘されます。なぜなら、この先人たちの生きていた世界、言説空間は、現代のわたしたちのそれとは大きく異るからです。
平氏は、武術(が作られた時代の人々)には「三次元」「引力」という概念がない、と指摘されます。そしてこれらの概念を用いれば、難解な武術が比較的平易に理解できる、というのです。
これは非常に重要な指摘です。
武術に限らず、時代・状況的に隔たりのある時空間で語られた言葉は、第一にその文脈を理解することなしには解読し得ません。その時代に当たり前だったものが当たり前でなくなり、わたしたちにとって当たり前のことが当たり前ではないのです。
武術の世界には、時折、難解でよく分からない概念や技が神秘化され、過剰な幻想が投影されている場合がありますが、単に「その時代においてはそういう言い方をする方が簡単だった」という場合がままある筈です。
特に、「引力」という概念がなかった、という指摘は重要で、今日のわたしたちであれば引力・重力といった言葉で説明するところを、武術では(今のわたしたちから見ると)高級そうな言葉で語られることがあります。これは単に、その時代には他に言いようがなかったからで、当時の人々にとってはそういう方が簡単だった、ということでしょう。
平氏の試みるのは、言わば「武術の翻訳」です。
平氏が挙げるキーワードは「三次元」「引力」「繋がり」「陰陽」。
まず「三次元」とは、前後・左右・上下のことです。例えば、パンチを打つ場合、これは一見すると「前後」の力ですが、これだけに注目すると腕力に頼ることになります。身体の回転(左右)と沈身(上下)を組み合わせることで、体全体の力を活用できるようになります。
実際は、この三つの方向の力を全力で使うと、確かにパワーはあるものの、モーションが大きすぎて実用に供さない動きになります。ですから、この時に使われている体幹のコアの動きに注目して、最終的にはコア部分の動作だけで三次元的な力の出し方をするようにする、とのことです(練習過程では、大きく動くことで身体部位を意識化する効果がある)。
ちなみに、意拳で六面力と言っていることの一部は、こういうことなのではないかと思います(違ったらごめんなさい)。六面力概念においては、それぞれの力の拮抗、という要素も大切な筈なので、「三次元」に還元できる訳ではないと思いますが、「六面力」と言うと神秘がかっているのが、「三次元」と言えば普通の概念として受け止められます。
さらに余談としては、島田先生はこのうち「上下の力」こそが重要、と指摘されています。これはつまり「引力」ということでしょう。完全にイコールだとは思いませんが、そう考える方が現代人にとってはとっかかりが得やすいかと思います。上下といっても、上に行ったり下に行ったり、という動きではなく、引力とそれに拮抗する力、ということです(の筈)。
続いて「引力」ですが、ここでは足の裏をアーチのように使い、バネをきかせる、という話になります。
バスケットボールが二つ用意されるのですが、片方には空気が入っていて、片方には入っていません。地面に落とすと、空気の入っている方はバウンドしますが、入っていない方は撥ねません。ボールが跳ねるのは、ボールに筋肉があるからではありません。しかし「バネ」があれば、力を使わなくても地面から力を得られる、という例えです。
これも意拳・太気拳に非常につながる話なので、平氏はおそらくこれを島田先生から学ばれたのではないかと思います。ただしこのバネは単に膝のバネでぴょんぴょんする、という意味ではありません。それでは身体が浮いてしまいます。膝も結果的に曲がりますが、股関節と骨盤、更にそれを先導する仙骨角度などがポイントになる筈です(わたしの理解では)。
「繋がり」といのは、身体がバラバラのパーツとして使われるのではなく、全体が連関している、というもの。
「陰陽」で語られるのは、どちらかという指導のポイントで、正しいやり方を教えても飲み込んで貰えない場合、むしろ逆に、全然駄目なやり方というのを最初にやってもらうと良い、という話です。するとその「使えない」場所から生徒は「使える」場所を探そうとするので、結果として正しいやり方を理解できる、と言います。また、格闘技では相手は「打たれない」「極められない」ようにするもので、つまり「できない」場所から「できる」場所へと移行するのが大切、とのことです。
続いて、「先の先」「後の先」などの武術的方法を、格闘技で使う例が示されます。平氏らしく、打撃でも関節技でも例があげられます。
この後、ちょっと面白いことに「格闘技を武術に活かす」という話があります。「武術を格闘技に活かす」というならよくあるのですが、その逆です。つまり、ルールによって安全性を確保された格闘技的なメソッドを、武術の稽古にも役立てる、ということです。目的意識をもったスパーリングの意義などが説明されました。
ここで平氏がされたお話が、素晴らしいものでした。
武術と格闘技では何が違うのか。格闘技はスポーツであり、ルールがある。ここまでは誰でも言えます。そして格闘技は基本的なことだけが決められているので「誰でも参加できる」が、「才能の競い合い」になります。才能豊かな者がチャンピオンになれば良い、ということです。
これに対し、武術というのは、戦の中で用いられていたもので、ほとんどの場合、多人数対多人数であっただろう、と言います。すると、例えば百人のうち一人が抜きん出て「チャンピオン」だったとしても、残りの99人がボンクラのままでは、百人相手に戦えば流石に負けます。すると、トップの実力を上げるということより(それも大事ですが)、下のレベルを底上げし、平均値を上げてやらないといけません。「チャンピオン」的な人は、みんなで生き残るために、残り99人のチャンピオンならざる人たちを、底上げしてやる必要があったのです。
武術と格闘技、という話になると、大抵は最初のルールの有無だけが話題になり、武術は目潰しやら「汚い」技を使う、といった陰惨な面ばかりが強調されます。それを隠れ蓑に「試合では使えない」と検証を拒む「武術家」も沢山います。
しかし平氏の言っているのは、これよりずっと深いレベルの話です。確かに武術に禁じ手はないし、実戦となれば何でもやるでしょうが、それ以前に「全体の底上げ」「みんなで生き残る」ことが大事だ、というのです。その為には、たとえ実戦でえげつない手を使うにしても、仲間内でそんなことばかりやっていては「みんなで生き残る」ことができません。
これはとても胸を打たれるお話でした。
どんな達人も一人では生きていけません。武術が「リアルファイト」であればこそ、社会との繋がりがより深く意識されていた筈です。そういう意味では、「何でもあり」「陰惨」なイメージのある武術の方が、個人主義的なスポーツ格闘技より、「死に物狂いで皆んなのことを考える」必要があったのではないでしょうか。
全体として印象的だったがの、平氏が謙虚で礼儀正しいことです。いかにも先生ぶって偉そうにするところがなく、「あくまで仮説」的な控えめさがにじみ出ています。それでいて、当然ながら、ちょっと動くと細かい動きが素晴らしくキレています。
加えて、最初に指摘したような「言説空間の違い」を意識し、言い換えようとする辺りに、頭の良さを感じます。
自分の中ではグッと好感度がアップしました。凄い先生です。
平直行 総合武術入門 武術を格闘技に活かす! [DVD] クエスト 2012-02-18 |