名著です。
名著すぎて、人に教えたくなくなるくらいです。読んでいて「ああ、これは自分のことだ」「若い時にこういう本に出会っていれば」と様々な思いに揺さぶられ、感動すら覚えました。
初めて人と組手で向かい合った時の当惑。それは人と向かい合うというストレスの大きさであり、間合いという距離に対する無知であり、戦端を開くきっかけをどうやって掴めばいいのか? という戸惑いだったに違いない。そしてそれは何年も稽古を重ねた後ですら明確にそれを乗り越える方向性を持てないままではなかったのか? だからこそ限界を感じたのではなのか? 突き蹴りの力強さや型の巧緻性のみに眼を向け、初めて人と向かい合った時の当惑に対しての答えは果たして与えられたのか?
これ、すごく思い当たります。思い当たる人が多いのではないでしょうか。
序盤にある記述なのですが、まるで心を見透かすように半端に武道を齧った者が心中抱くものを言い当てられ、なんだか泣きそうな気持ちになりました。
空手でも他の武道でも、基本稽古・移動稽古があり、基本の突き蹴りの仕方、受け方を学びます。約束組手があり、「こう来たらこうする」的なパターンをある程度学び、コンビネーション等も学習していきます。ウェイトなどでパワーを付け、体を作ります。
でも、いざ組手に向かった時、一番分からないことに対する答えが、これらの稽古から得られたでしょうか。こうした稽古が無意味だ、というのではまったくありません。有効ですし、重要です。でも、組手をする時の、あの「いつ打ったらいいか分からない」相手との間のボヤーンとした不安な感じ、近づけば打ち合いになるし、離れていては始まらないし、という、あの感じに合理的に対処する方法というのは、一般的な稽古では見つからないのではないでしょうか。
もちろん、持って生まれた才能のある人は、教わらないでもこの領域の感覚を掴みます。そして格闘技では、そうした才能ある人間だけが生き残り、そうでないもの(わたしも含む)は、突き蹴りは強くなっても、組手でそれを活かす術を知らないままです。正確に言えば、飛び込んで打ち合えば「活かす」ことはできるのですが、それは体力の削り合いに他なりません。
太気拳、そして天野師範は、この一番不安な領域、どうやって勉強したら良いのか分からなかった領域にアプローチしようとしているのです。
以下、気になったフレーズをいくつか引用しておきます。
打たれるのを我慢して打ち返すといった打ち合いは絶対に避けるべきで、「当たる時もあれば、当てられる時もある」では稽古とは言えない。
手の動きや力は、上から下へ、あるいは外から内に動くときに素早くまた力強く動くものだ。動物を見ても猿にしても熊にしても猫にしても攻撃する時は上から下、外から内だ。(・・・)だから構えは手を顔の高さに上げ、顔の広さくらいに開く。
手はまぶたと一緒。まぶたは何か物が眼に近づくと自動的に閉じる。それと同じように顔の前に開いての拳が来ると手が動いて防いでくれる。あるいは蹴りを捌いてくれる。
相手が打ってきた時に手が利かないとどうなるか?というと打たれるのを我慢する。打ってくるのをガードして利かない様にする。それはそれで良い。ルールの中でならそれでも良いかもしれないが、もしそれがナイフだったらどうするのか。二、三回刺されてから打ち返すか。私は勘弁して欲しいと思う。
「腰を落とす」太気拳の構えについて。
ここで言う「腰を落とす」とは股関節を曲げる、ということだ。股関節を曲げた結果として、膝が曲がるのと、膝を曲げて低くなるでは姿勢から動きまで違いは歴然だ。
この腰を落とす構えは、武術としては「特殊」である一方、バスケやバレーなどの球技ではよくある姿勢だ、ということが指摘されます。確かに、特にバスケの姿勢にはこの太気拳の形に似た状態がよく見られます。
「歩幅は短距離走のスタートの時の歩幅くらい」というポイントも示されています。
歩法について。
地面を捉える力は身体全体の伸縮から来る。この力で地面を蹴るが、その時身体がが浮いてはいけない。
身体全体の伸縮を活かすポイントの一つは脛。脛を地面にまっすぐに打ち込む。腰が脛をまっすぐに打ち込み、踵がその力を受け止めて地面を捉える。
脛の方向はもう一方の足に向ける。もう一方の足に重心を移す準備をさせておく。
脚のしごとはもう一方の足に重心を移すこと。ならばその仕事を完遂したところに膝を置いてやる。立禅なら右足を左足に向け、左足を右足に向ける。あるいは半禅なら後ろ足を前足に重心を移したところに置いてやり、そのまま重心を後ろに戻す。そうすることで膝・脛・踵は既に脚の仕事をやり終えた位置にあることになる。つまり「重心を移す準備はもう出来ている」という状態だ。
「打ち合ってはいけない」こと。
組手で一番やってはいけないのが、「打ち合い」だ。打ち合うとなぜいけないのか。当たり前、それは危険だから。危険なことをやるのは賭け。スリリングな賭けだからこそプロ興行では打ち合いがもてはやされる。誰でもそれが自分に及ばない限り、危険に挑戦する姿は好きなモノだし、それがプロのプロたる所以だ。しかし武術は可能な限り危険を避けることが原則であり、賭けを組手でやっても強くはならない。
「打たせない」技術について、澤井先生のされた馬賊の頭目の話が収められています。
この馬賊の頭目は拳銃の名手として知られ、関東軍の間でも恐れられていたそうですが、ある時、この頭目と関東軍兵士二十人以上が店で鉢合わせになったそうです。この時、兵士の誰もが銃を持ちながら、一人も撃つことができなかったそうです。
天野先生は、当初は撃てなかった兵士に感情移入していたそうですが(わたしもそうです)、後になって、「打たせなかった」頭目について考えたと言います。兵士らが全員でかかれば、いかに名手とはいえ、頭目も生き残れなかった筈です。ただ、最初に抜いた者は確実に撃たれる。そのため、誰も撃つことができない。このような「打たせない」技術が重要だ、というお話です。
打たれた時にどうするか。もちろん、打ち返すのが一番なのですが、そうでない場合は「リセット」することが大事、というお話。
打たれた瞬間に腰を落とし、重心を左右に転換する。ちょうど正面から見れば頭がOの字のように動き、同時にそれにともなって腕も動く。太気拳の練りの動きだ。
自然体について。
何の準備もない自然体は死に体にすぎない。
打拳について。
まず膝が準備し、腰が行き、最後に肩が回転する。その膝までの準備は常に整えておく。そして打とうと思った瞬間、後ろ足で蹴りこむのではなく、腰を捻り、その勢いで肩を回転させ拳を打ち出す。重心は後ろにあって構わない。肩が動けば膝腰肩は一致して身体は一つにまとまる。その瞬間に嫌でも重心は前に行く。具体的に言えば、臍を瞬間的に相手に正対させる。そうなった時に、嫌でも身体、特に上体が捻れをもつ。その捻れこそが振り子が振れた上体であり、腕を軽く振り出せば振れた振り子は中心点に向って動き始める。その捻れが元に戻ろうとする身体の、特に上体の捻れ、張力こそが後ろ手の栄光、つまり黄金の右ストレートを約束してくれる。
後ろの膝は後ろでの打拳の準備をし、前膝は前での打拳の準備を整えている。その上体でただ前手を出してジャブのように出すのではなく、打つ瞬間に腰を捻り、その勢いで肩を回転させその力で拳を打ち出す。
「飛び込んではいけない」こと。
何で前に三歩出られないか、また何で相手の腕と接触してしまうとバランスを崩してしまうのか。理由は簡単といえば簡単。一歩一歩進む時に、きちんと重心が左右に乗っていないからだ。つまり飛び込んでいるから身体が浮いている。そこに接触させるからバランスを崩す。
「拳線を抑える」。
相手の拳線を抑えている上体から、今度は相手が打とうとした瞬間を見つけて逆に相手の手を抑えるように動く。相手の攻撃を避けるより、実はこの方が守るのが確実だということが分かるようにする。
「打たれるまでは、打たれない」という言葉も印象的です。「打たれる前からビビるな!」ということです。
打たれる前に打たれることを恐れて身体を萎縮してしまっては、出来ることも出来なくなる。相手の全体を捉え、逍遥として立ち向かう。
緊張を解すこと。
相手が来る時に身体をフッと縮めるようにする。足の指で軽く地面を掴んで持ち上げるような感じにする。ちょうど雲の上を歩くような感じだ。そうすると背中も脚も緊張することなく対応できる。身体が一瞬軽くなっているから、脚が硬直しない。脚が硬直しないから心理的にもビクつかない。
解説によると、末端を緩ませると身体全体の力みが取れるようです。そういえば倉本成春先生も、「力を抜け、というと、皆肩の力を抜こうとするが、一番大事なのは前腕の力を抜くことだ」と仰っていました。
組手再入門―いま、武術を諦めないために 天野 敏 BABジャパン 2008-04 |